とよす株式会社について

2018/07/26

とよす株式会社は、創業以来、百年以上にわたり、米菓一筋に、製販一貫体制を続けております。その中でとよすが持ち続けた米菓への想いやこだわりを、とよすの歴史と共にご紹介いたします。

  • ごあいさつ
  • とよすの歴史について

ごあいさつ

平素は当社の商品にご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。

とよすは、1902年(明治35年)、創業者豊洲卯三郎が「丁寧に手作りした焼き立てのあられをお客様に手渡ししたい」という夢を抱いて創業して以来、百余年にわたり職人や販売員がいつもお客様のそばにありたいと願い、伝統を守りつつもお客様のご要望を、いち早く商品に反映してくことを使命として受け継いでまいりました。

米で人を豊かにしたい。

  •  きめき  多彩な味、愉快な味に心ときめかせ
  •  ろこび  人々が集まり、分かち合うよろこびを想い
  •  こやか  素材を厳選し、すこやかな食文化を創る

 

創業時から受け継がれてきた理念を発展させ、お米のもつ可能性をとことん追求し、伝統を守りつつも、新しい価値のあられや食シーンを創造できる商品を開発してまいります。
今後とも、お客様のさらなるご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

 

とよす株式会社
代表取締役社長 真山 靖宏

とよすの歴史について

商売の幅を広げた初代 ― あられの焼上げ・卸から製販一貫産業へ ― 

明治35年、豊洲卯三郎は妻の実家である大阪の阿波座で「樋口」の屋号であられ製造を開業しました。
あられ生地屋から購入した餅を裁断し、あられ生地を作り、焼き上げて味付けし、菓子小売への卸しから商売を始めました。

しかし、あられ生地を買うより自分たちで作った方がよいと考えた卯三郎は製餅設備を揃え、息子の六郎とともに生地づくりから焼き上げ、販売まで一貫して行うようになりました。

あられは、もともと各家庭で固くなった餅の再利用として作られていたものです。
「のし箱」に入れて成形し、量産するようになったのは、明治になってからのことです。

戦前、かきもちの製造直販は関西ではほとんど見られませんでした。米菓のみ販売しようとすると、製造に手間がかかる割には種類を取り揃える必要があったためと思われます。

パン屋よりもやはり米菓 ― 戦中・戦後の混乱期にも持ち続けた米菓への思い ― 

六郎の代になってから、第二次世界大戦のさなか、大阪の九条にあった工場を閉鎖し、家族を連れて大阪の北摂、池田市に移り住みました。
大戦直後、米がほとんど手に入らなかったため、豊洲六郎は妻栄とともに配給の小麦粉を使い、職人を雇ってパン屋を営んでいました。

パン屋は大変繁盛しましたが、六郎はパン屋の一角で、地味ながらも少しずつあられを売り続けることはやめませんでした。
六郎は米菓への思いから、昭和25年に自ら商品開発できる米菓製造業に戻りました。
工場設備を整えて袋菓子を量産し始めた頃は、商品欲しさに問屋が工場まで取りに来て争って持ち帰っていた時代もありました。

高級米菓への道を模索 ― 新しい販路開拓から百貨店を視野に入れた直販へ ― 

戦後、米の生産量が増え、今度は米余りのため、政府が米加工業を援助するようになりました。
数々の米菓製造業が台頭し、大きな設備で大量生産を行うようになりました。
とよすは差別化のため、これまでになかったカテゴリーである高級米菓への道を模索し始めました。

日本で始めての地下街であるなんば地下センターのオープンと同時に、とよすの直売店第一号が開店しました。
当時は主に計量販売を行い、斬新な売り方として大変な人気を博しました。

その後、大阪ではいち早く阪神百貨店が「のれん街」として専門店を誘致しており、とよすでも、もっと美しいものを作ってその中に入りたいと望み、当時としては珍しく、早い時期から専属のデザイナーと契約して美しいパッケージを作る試みを開始しました。

テレビCMで知名度を上げる ―業界初のプロモーション手法― 

テレビCMを大々的に行ったのも、業界初の試みでした。
六郎の娘婿だった明光は、営業を担当しながら、販売を伸ばす方法を模索しました。

1960年代より、「二木てるみ」や「中村玉緒」を起用して、テレビコマーシャルを放映。
「とよすあ・ら・れ」のジングルとともに、広く名前が知られるようになりました。

1970年の大阪万博には、エキスポランドの目玉ジェットコースター、「ダイダラザウルス」の下にとよすの売店を開き、ここでも知名度を高めました。

画期的な新製品 ―今では米菓の定番となっている製品も登場― 

ひなあられの誕生

それまで風習として自宅で手作りしていたひなあられを商品として生み出したのも私ども、とよすあられでした。
紙で組んで作ったひな人形にあられを入れて販売したのもとよすが最初です。
これは、直売店を持つようになり、店頭映えする商品が必要になったことがきっかけですが、今では全国の幼稚園の雛祭時に配布されるようになっています。

サラダ米菓

揚げ米菓より品の良い、かつ現代的な味を追求する中で、生活の中に登場した「サラダ油」を使った製品を開発しました。
「サラダ油がけあられ」から、通称「サラダ」と呼ばれるようになり、米菓の定番の一つに加わっていきました。

とよすの自信作「ほうろく」

他社に無い繊細で美味な米菓を作ろうという試みのなかで、おこわのような粒々があり、薄く上品なおかきを目指し、手間をかけた「ほうろく」を創り出しました。
「ほうろく」の製造工程は、今でも殆どが手作りです

創作米菓 ―創業以来続く“米菓を創る”心意気―  

昭和50年代からは新しい創作的な米菓を目指し、クラッカーのディップや手作り最中のように自分でひと手間かけて食べる「とよかさね」、オードブルのカナッペのように米菓の上にナッツやチョコレート、レーズンを載せた「花天心」、季節のエディブルフラワーを米菓の表面に配した「季記有情」などを生み出しました。

そしてこれまでの柿の種の常識にとらわれることなく、自由な感性で新しい味に次々と挑戦し、柿の種のクオリティにもこだわった何度行っても新しい美味しさが発見できる柿の種専門店「かきたねキッチン」も現在は全国百貨店で展開しております。